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記録用

スメール(Steven Smale)が昔、ソ連当局に拘束された話

きっかけは以下のスライドの5~8pageです。

 

 
特に 

モスクワでのフィールズ賞受賞 記者会見では、 アメリカの北ベトナム爆撃と ソビエトハンガリー侵攻を 批判し当局に連行された 

 という部分に興味が湧いて、レファレンスを探したのですが、日本語ではなかなか見つかりませんでした。ので、英語でいろいろ調べました。その内容と他の調べてわかった面白スメール情報とそもそものスメール情報を以下にまとめようと思います。

 

いろいろ調べたところ以下の本の記述がしっかりしていました。

www.springer.com *1

大学によっては、ただで読めるかもしれません。うちの大学からは読めました。

以下の内容は基本的にこの本のP191~を参考に書かれています。

スメールとは

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スティーヴン・スメイル(Stephen Smale, 1930年7月15日 - )はアメリカ数学者。専門は微分トポロジー力学系数値解析

ミシガン州フリント生まれ。ラウル・ボットの指導の下、1957年にミシガン大学Ph.D.を取得。その後、シカゴ大学プリンストン高等研究所カリフォルニア大学バークレー校コロンビア大学を経てカリフォルニア大学バークレー校に戻る、1995年から香港大学教授。1962年にはコレージュ・ド・フランス客員教授を務めた。1966年にフィールズ賞ヴェブレン賞を受賞。

業績として、特に実力学系において、スメールの馬蹄型写像英語版を生み出し、双曲型構造安定な力学系(モース・スメール系)の理論を構築した。

微分多様体上でモース関数を使用して、高次元ポアンカレ予想を解決した(この手法は4次元ポアンカレ予想にも応用された)。

(Wikipedia より)

スメールは数学にも左翼にもガチ

 微分幾何学と言ったら、「子供の頃は知性をそのまま出すとイジメられるので白痴のふりをしていた」で有名なミルナーで、微分トポロジーと言ったらチョムスキーと双璧を成すアカデミアの二大ガチ左翼」スメール、というのがまず思い浮かびますよね。

スメールの左翼の源泉は

He had been brought up by his father with a mentality that was very anticlerical and leftist. [1]

教権反対と左翼のメンタリティを父親から仕込まれて育った。

 というように、父親きっかけだったんですね。

 

1966年モスクワでスメールがフィールズ賞を取る

それでは、本題の1966年にスメールがフィールズ賞を取るときどのような出来事が起こったかまとめていきます。

そこら辺について書かれた記事が下

www.abc.net.au *2

スメールはベトナム戦争には絶対反対。

スメールは1966年当時、カリフォルニア大学バークレー校にいました。UCBerkeleyといえば今も昔もリベラルの牙城ですね。

ベトナム戦争と冷戦の真っ只中だった時代に、スメールは大学でベトナム戦争の反対運動をガチでやっていました。

‘That was a very famous time in Berkeley, because that was when the free speech movement started,’ says Smale

‘I was involved in that, pretty much as a supporter to the students.’[2]

とあるように、フリースピーチムーブメントが生まれて、その中でベトナム反戦運動学生運動をサポートしていました。

また、

Smale worked alongside colourful 1960s radical Jerry Rubin to organise a massive 35-hour anti-Vietnam war teach-in involving tens of thousands of supporters. He also attempted to stop troop trains heading to Vietnam.[2]

ジェリー・ルービンと協力して、35時間のティーチイン*3をやったりもしていたようです。

詳しくは以下の本に記述があります。

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 この本によれば、ジェリー・ルービンのほうからスメールに接触したそうです。

スメール、反米活動対策委員会から召喚されるがすっぽかす

このことについては日本語の記述がありました。(注は全部引用注です)

しかし、当時*4アメリカのNSF*5の研究費を得ながら、ブラジル*6を訪問していたことが、後に、彼がバークレーベトナム反戦運動に加わったことをきっかけに問題とされ反米活動対策委員会から召喚されることになる。事実、1968年のサイエンス誌に、ジョンソン大統領の科学補佐官が「税金を納めている一般人は、こんな数学研究はリオの浜辺の公的資金でやってくれ、と意思表示するべきだと…。」と書いているの3

http://mathsoc.jp/publication/tushin/904/nishimura.pdf(引用部は1ページ目の三段落)*7

というように、スメールは召喚されます。ですが、それをすっぽかします。

‘That's why I was eventually subpoenaed by the House of Un-American Activities,’ says Smale.
However, in a beguiling twist, Smale ducked the subpoena, because he had already left for Moscow to collect his Fields
Medal.Reporters thought they smelled a rat. A headline in The San Francisco Examiner screamed, ‘UC [University of California] Prof Dodges Subpoena, Skips US for Moscow.’ There were quiet retractions when the papers realised Smale wasn’t escaping to Moscow, but rather accepting the most prestigious medal in mathematics.

なんと、スメールは召喚を無視して、召喚のその日にモスクワに行ってしまいます。なんでモスクワかというと、フィールズ賞を受け取りにです。

上にははじめは、「教授が召喚を逃げやがって(冷戦相手の)モスクワに行ったぞ!」という記事を書いていた新聞も、スメールが数学界で最も権威のあるフィールズ賞をとりに行ったのだということを知ると掌を返したと書いてありますね。

これでなんとかなってしまうのは「アメリカ」っていう感じですかね。

スメール、フィールズ賞を受賞する

スメールはすっぽかして、モスクワに着きました。そしてフィールズ賞を受け取りました。

受賞スピーチですが、これは調べても物が出てきませんでした。ですが、ふつうに数学のことを喋っただけで、政治的なことは言わなかったのだろうと思います。

 

じゃあ、ソ連当局に拘束されてなかったの?と思った皆さん、安心してくださいスメールはちゃんと当局に拘束されてます。

スメール、モスクワ大学前でスピーチ "On the steps of Moscow University"

f:id:yukarinoki:20170906034633p:plain*8

 

スメールは賞を受け取って、会場のモスクワ大学の講堂を出るとその階段の上で記者を集めて、スピーチを行いました

スピーチの内容が下です。

link.springer.com *9

As I wrote down my words attacking the United States from Moscow, I felt that I had to censure the Soviet Union as well*

— Stephen Smale, "On the steps of Moscow University" [4]

アメリカ合衆国を攻撃する言葉を書いたように、私はソ連も厳しく批判しなければならない」

そのスピーチでスメールはまず、アメリカのベトナム戦争を批判しました。そして、市民が体制に抵抗することができないソ連の状況も批判しました。*10

 

そして、スメールはスピーチ後、

They detained Smale in order to prevent his having other contacts – treating him with all the respect due to a diplomat, and extending many a privilege to him – but they sent him away from Moscow under pretext of a long sight-seeing tour, which only came to an end when Smale had had enough and demanded to be let out of accepting other similar “courtesies”. The trip had been a long one: it was late night before he was able to return to his hotel.[1]

 車で強引に連れて行かれ、他の人間との接触を阻むため拘束されました。スメールに対する対応は、最大限の敬意を払ったものでしたが、「長い観光案内」の名目でモスクワから遠くを連れ回され、開放されたのは夜遅くでした。

 

ちゃんと拘束されていました! 

 

このスピーチにはソ連が怒こっただけでなく、

Amidst the Cold War tensions many Americans felt the speech, in the enemy capital, was an act of treason. [5]

冷戦の最中に、敵国の首都でアメリカ批判を行うのは、自国に対する裏切り行為だとアメリカ市民は感じました。

というようにアメリカ市民も怒りました。

 

大変な事件ですが、この出来事についてスメールは、

‘I was in a strong position because I had just gotten the Fields Medal, and so they didn't arrest me or anything,’ says Smale.  ‘But, there were a lot of repercussions.’[4]

 フィールズ賞取ってたし逮捕は絶対されないと思ってた、と強気です。

 

その後

Members of Congress were outraged, and Smale's federal research grant suspended.[5]

上院議員が怒って、スメールの連邦研究資金を停止したり、

The Governor of California, president-to-be Ronald Reagan, had been following Smale’s activities and, in private, pushed to have the award-winning professor fired.  In public, Reagan called the activism at the University of California, ‘the mess at Berkeley’ and referred to Smale and his compatriots as ‘beatniks, radicals and filthy speech advocates’.

当時、カリフォルニア州知事だったレーガン*11から大学にスメールをクビにする圧力がかかったり、「ヒッピー過激クソスピーチ信奉者」と言われたりします。

 

それでも、スメールは30年に渡ってカリフォルニア大学バークレー校の数学教授であり続けました。

まとめ

ガチ左翼は心が強い

 

 

あと、記述が間違ってる所があったら教えてくれるとうれしいです。

参照

この本も参考にしました

f:id:yukarinoki:20170906051409p:plain

 *12

 

 

*1:[1]

*2:[2]

*3:ティーチインとは大学の学生や教職員による政治問題などの討論集会

*4:1960年頃

*5:National Science Foundation の略。アメリカ国立科学財団』by Wikipedia

*6:1960年まではアメリカとブラジルの中が悪いということはなかったと思いますが、1961年にジャニオ・クアドロスが大統領に就任してからは、アメリカとの距離を起き、ヨーロッパ諸国、東側諸国、そしてキューバ革命以来ラテンアメリカで孤立していたキューバとの関係を深めていました。その後、1964年にアメリカからの支援を受けたカステロ・ブランコ将軍がクーデターにより政権を奪取することになります。ですから、1961~1964まではアメリカとブラジルの中は悪かったろうと思います。

*7:[3]

*8: 上がシカゴ大でのスメール(1968),右下が新聞の画像、左下がモスクワでのスメール(1966)

*9:[4]

*10:

こんなことも言ってます

I believe that American military intervention in Vietnam is horrible and becomes more horrible everyday. I have great sympathy for the victims of this intervention, the Vietnamese people. However, in Moscow today, one cannot help but remember that it was only ten years ago that Russian troops were brutally intervening in Hungary and that many coura- geous Hungarians died fighting for their independence. Never could I see justification for military intervention, 10 years ago in Hungary or now in the much more dangerous and brutal American intervention in Vietnam. ... I feel I must add that what I have seen here in the discontent of the intellectuals on the Sinyavsky-Daniel trial and their lack of means of expressing this discontent, shows indeed a sad state of affairs. Even the most basic means of protest are lacking here. In all countries it is important to defend and expand the freedoms of speech and the press.

 

*11:ベトナムを更地にして駐車場にすればいい」でおなじみ

*12:[5]